フリーのボディーガードとして警護を請け負う元軍人の深見のもとに、奇妙な依頼が舞い込んだ。
ある天才数学者を、テロリストから護衛してほしいというものだ。
テロの脅威などほとんどない平和なこの国で、バカンスのような仕事だというが、
護衛対象である数学者・南雲はかなりの変わり者のようで……!?
孤独な天才×魅惑のボディーガードのガチムチ受けエロス最新刊!
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登場人物紹介
- 深見顕(ふかみあきら)
早くに両親を亡くし、傭兵やフリーのボディーガードで生計を立てている。奇妙な依頼で帰国するが…?
- 南雲陽司(なぐもようじ)
コミュニケーションに難のある天才数学者。とある企業の依頼のせいでテロリストに狙われているらしく…。
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最後の一人を追って甲板の上へ出た。
顔を上げた途端に銃声が響く。咄嗟に屈むが、弾道は大きく頭上へ逸れた。射撃の腕はよくないらしい。感覚だけで撃ち返すと悲鳴が聞こえ、すぐに沈黙した。
暗視ゴーグルを外して頭を振る。
見渡せば夜明けの鮮やかな青が目に痛い。島一つ見えない灰色の海の上、聞こえるのは波音とエンジン音、そして自らの荒い息だけだ。
脚が重い。だが、休むにはまだ早い。
船首まで歩き、太った男が血を流して倒れているのを見下ろした。確認のためにもう一度腹を撃つ。血と脂が飛び散った。瞼に滴の感触がある。しまった、ゴーグルを外すのではなかった。袖で拭ってから舌打ちした。どこもかしこもすでに血で汚れている。顔が血だらけだ。
ナイフを雑に使い過ぎたな。
肩を撃たれただけにしては妙に服が重いわけだ。着ている装備を全て脱ぎ捨て、血を絞ればバケツ一杯分にはなりそうだ。
記憶を辿りながら、船の中をしらみつぶしに見て回る。ブリッジ内は死体で埋まっていた。鼻はすでに麻痺していて生臭さは感じない。ガソリンの臭いだけがきつく鼻を刺す。
折り重なって倒れている死体のうちの一つを蹴って裏返した。背中は乾いているように見えたが、腹や顔面からは大量に血が滴る。
下顎のあたりを撃たれたのだろう、頬の皮膚がめくれて食いしばった奥歯が剥き出しだ。散弾でもくらったのか、前歯は弾け、眼球が飛び出している。咽喉は爆ぜ、舌は焼け焦げて黒い。
人間の喉の断面を見る機会はそうないので、舌はひらひらしていると思われがちだが、舌の根元はかなり太い。人によっては陰茎よりも。特に出血で攣縮している場合などはびっくりするほど太く見える。
この仕事に就いてすぐに、腹の中身を見るのには慣れてしまった。顔の酷い損壊にも何も感じなくなって、もう何年も経つ。ターゲットとは年恰好が違う、顔が分からなくても問題はない、そんなことを思うだけだ。
アサルトライフルを下げ、腿のホルスターから拳銃を取り出した。一人ずつ数えながら足元の死体を撃ち、反応がないことを確かめる。すぐに弾が尽きた。弾倉を取り換えてひたすら撃ち続ける。ターゲットの死亡も確認した。思ったよりも死体は多い。
そこで死体の中に自分が着ているのと同じ黒いタクティカルベストを見つけ、反射的に撃つのをやめた。
いや……そうだ、こいつは撃っていいんだ。
オリーブ色の肌と黒い髭、優しげな長くて濃い睫。裏切り者の死に顔は意外にも穏やかだ。
かつて仲間だったその男は、乗船が完了するやいなや、チームリーダーを撃った。
つい数時間前のことだ。
そしてゴーグルを外してこちらへ手を伸ばし、語りかけてきた。
その彼を今度は自分が撃ち殺した。
目の前で突然始まった仲間割れに最も若いメンバーのフィルは唖然としていたが、彼の尻を蹴り上げて走り出した。海上での奇襲作戦実行チーム、そのたった四人の中に裏切り者が紛れ込んでいた。作戦が始まる前から面子が半分に減ったのだ。迷っていれば殺される。考えている暇はない。そこから先は地獄だった。
銃声のおかげでせっかくの苦労は水の泡となった。奇襲が強襲に早変わりというわけだ。
そのフィルも、つい先ほど敵に撃たれた。
確認作業は終わった。敵は全滅し生存者はいなかった。思わず安堵の溜息が漏れる。まだ気は抜けないが、これで少なくとも身体を休めることはできそうだ。
本部に連絡を入れ、ターゲットと同僚二人の死体を広いところへ持ち出す。悩んだ末に、もう一人の同僚、裏切り者の死体も引きずっていく。死体と並んで座った。
先ほど死んだばかりのフィルは本当にまだ若かった。少年のようにさえ見える彼の顔、髭というには淡すぎる金色の産毛が朝日に照らされて光っている。滑らかな頬には血の飛沫。
『アキラ! 撃たれたのか?』
『フィル、ぼうっとするな。死にたいのか! 次やったらセイウチと交尾させてやるからな』
『悪い。面食らっちまった』
『今応援を呼んだが……たぶん間に合わん。俺とお前しかいない。踏ん張れるか?』
『大丈夫だ。もう俺を庇かばうな。こっちは俺がやる。おっさんと違って俺にはまだ体力が……アキラ、伏せろ!』
最期の会話を思い出した瞬間、耐えかねたように胃が暴れ出した。
「……っ」
酸っぱいものが込み上げるが、必死でそれを飲み下す。彼が突入した側の死角には敵がいて、自分の側にはいなかった。それだけの違いだ。そういう仕事なのだ。フィルだってきっと分かっていた。確かに彼は若かったが、ガキじゃない。そうやって納得するしかない。それ以上、今はどうすればいい。
こういった状況では他にどのような方法で死体に敬意を払えばよいのか分からなかったので、アサルトライフルを抱えてただ見ていた。迎えが来るまでの時間を死者に捧げた。祈る神もなく、涙も出ない自分に捧げられるのはそれだけだ。
それからしばらくしてヘリが到着した。ファストロープを使って船に降り立った仲間がこちらに向かって駆けてくる。途端に疲れが押し寄せた。
死体の隣で軽く手を上げ、血塗れの顔で腑抜けのように笑う。もう立ち上がるのも億劫だ。
「よう、ご苦労さん」
「よ……よくご無事で」
「さすがに無傷とはいかないな。一発喰らっちまった。止血はしたが」
久しぶりのまともなお喋りだ。ぐいと腕を引かれて立ち上がる。肩を借りて歩き出すと舌が歯の裏に触れた。砕け散ることもなく、しっかりと生えている自分の歯、それから舌。こんな時でさえ、生きているという実感は膝が震えるほど甘美だった。なぜか笑いが込み上げる。
「ははは」
いいぞ。こういう時は馬鹿みたいに陽気でいるにかぎる。笑ってしまえ。