小説

祓い屋・木津恵信の荒ぶる性欲

著者
七川琴
イラスト
発売日
2019年9月17日
価格
720円(税抜)
刑事さんと一発ヤりてえ……っすみません!!

卑猥な言葉が口をついて出てしまう――それが木津恵信にかけられた呪いだ。呪術の専門家として捜査一課厭魅係に協力を頼まれた木津は、ある日、電車で痴漢を目撃し、屈強な刑事・盛田と出会う。引き締まった逞しい腰に泣き黒子、そして厚い胸板――。「……っ刑事さんのおっぱいすごい……っ」呪いによって、瞬時に失恋。もう会うことはないだろうと思っていた矢先、ある事件に関わる呪具を調べてほしいと、盛田が訪ねてきた。なんと彼は厭魅係の捜査員だったのだ。屈強なベテラン刑事と、彼に恋する若き祓い屋、二人の“最高にきまずい”共同捜査が始まった!

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登場人物紹介

木津恵信(こづけいしん)

呪いによって意図せず卑猥な言葉が出てしまう。呪術の専門家として警視庁に捜査協力の依頼を受ける。

盛田隆一(もりたりゅういち)

警視庁に新設された厭魅係のベテラン刑事。自分に好意を寄せる木津と共同捜査することになり――。

試し読み

 朝の地下鉄の車内は学生や勤め人で混み合っていた。視界の隅ではサラリーマンがハンカチで首筋を拭っている。まだ六月だというのに、うだるような猛暑が続いていた。だが僕は暑さを感じていない。空調の風が吊革を握る手首を冷やす。
 そっと視線を上げると、周囲に見えない壁でもあるかのように、ぽっかりとスペースができている。こんなにも混雑しているのに、僕を取り囲む彼らは少しでも僕から離れようと必死だ。うっかり僕の興味を引いてしまわないよう、皆息を潜め、目を逸らしている。
「ちんぽっ……」
 唐突に発せられた卑猥な言葉に、周囲の人間の身体がぎくりと強張る。数秒遅れて、舌打ちが聞こえてきた。朝から変な奴と乗り合わせてしまったものだ、と思われているに違いない。僕もそう思えたら、どんなによかっただろう。だが無理だった。
 なぜなら、これは僕の声だから。
「ち……んっ」
 咽喉からまた破廉恥な言葉が迸りそうになる。声を裏返らせながら必死で呑み込んだ。
 くそ、くそくそくそくそ! くそったれ!
 気休めとは知りつつも口を押さえずにはいられない。俯く僕に視線が突き刺さる。
「でかちっ……ん、……たてわれ……っけ……つっ……んこ!」
 その間にも、指の隙間をこじ開けて声が漏れ出た。往生際の悪い僕を嘲笑うかのような、さっきよりも少し大きな声が。一体どういう仕組みになっているのか、どんなに強く押さえても抑え切れたことがない。下品極まりない言葉が車内の空気をさらに凍てつかせてゆく。
 ああ、もう嫌だ。なんでだよ。なんでだ。
 目をきつく瞑る。できることなら消えてしまいたかった。乗客一人一人の胸倉を摑んで、違うんだ、僕じゃない、と叫びたかった。
 僕じゃない、か。いや、これは僕だ。
「す、すみません……っ……すみ……ちんぽっ……っません」
 必死で下を向き、誰とも目が合わないように気を付けながら何度も詫びる。しかし、口を開くだけで卑猥な言葉が飛び出してくるので、周囲のスペースはさらに広がった。
 電車が止まった。ドアが開き、ざわめきと共に大勢の乗客が乗り込んでくる。僕をまだ知らない人達、ただそれだけのことが無性に怖かった。こめかみを脂汗が伝う。
「あっち空いてんじゃん、なんでもっと詰めねえの?」
 誰かが不満げに漏らした。
「っおっぱい……っ……っ!」
 だが次の瞬間には水を打ったように静まり返る。ややあってから「なに、変質者?」と聞こえた。言われ慣れているはずなのに堪こたえる。鳩尾のあたりが重たくなった。
 横隔膜が痙攣する。またきた。抑えられない。
「ぱいずりっ……ぶっかけ……種付けプレス……」
 怒涛の卑語を浴びせられ、僕の一番近くにいた年配の女性は、酷く気まずそうに、そっと僕に背を向けた。申し訳なくて死にそうだ。何度経験しても、なぜ自分ばかりが、こんなに惨めな思いをしなければならないのかと自問せずにはいられない。そして、その答えもわかっていた。
 これは僕にかけられた呪いだ。
 僕は呪術や祈禱を生業とする古い一族に生まれた。今は民俗学の研究者として大学に籍を置く傍ら、一族のツテで祓い屋のような仕事を請け負って食い扶持を稼いでいる。一族の中でも、そちらの方面のセンスに特に恵まれていたから、というよりは、この状態では通常の職に就くことが難しかったから、というのが主な理由だ。
 先日、僕は呪術の専門家として警察から捜査への協力を要請された。今は呼び出されて警視庁へ向かう途中だ。
 僕だって平日の通勤通学の時間帯に、都内の地下鉄を利用するのは避けたかった。普段はほとんど車を使っている。だが今日は先方から自家用車での来訪は避けるように言われてしまった。送迎してくれる人の都合もつかなかった。
 タクシーを使うことも考えたが、以前、僕の言動を理由に乗車を拒否されたことがあり、それ以来タクシーは極力利用しないようにしている。自転車という手もあったのだが、ここ最近の異常な暑さを理由に大叔母に止められた。そこで仕方なく満員電車に乗り込んだ。
 僕にかけられた呪いは「場に相応しくない下品な言葉が自らの意志で抑えられずに口をついて出てしまう」というものだ。小さい頃は排泄物についての言葉が多かったが、思春期以降はもっぱら性的なものに偏っている。
 大抵は脈絡のない単語だ。言葉遊びのような単純な連想のことも多い。だが性的に興奮していたり、そういった妄想をしていたりすると、それがそのまま口から飛び出してしまう。おそらく、呪われている本人が自らの内に秘めておくべきことだと、それを言うのは恥ずかしいことだと思えば思うほど口から出てしまうのだろう。そういう呪いなのだ。
 誰だってそういうことは考える。僕だけではない。出てしまう言葉が僕の品性をそのまま表すものではない。頭ではわかっていても、感情は納得しない。外の世界に出ることは僕にとって辱められることと同義だった。
 実は普通の家庭の子供でも、呪いとは全く無関係に僕と似たような状態になることがある。言葉ではなく動作の場合もあるし、その両方のこともある。
 それは育て方でどうにかなるものではなく、ましてや本人の精神的な問題のせいでもない。精神状態により悪化したり改善したりするので誤解されがちだが、根本的な原因は生物学的なもので脳の成長過程で生じる。それでも親達は悩む。
 僕のこの状態が明らかになった時、両親も、かなり思いつめてしまったらしい。自分達の育て方が悪かったのでは、強く叱り過ぎたのでは、神経質に躾を行ったせいでは、と。
 しかし僕の場合、そういった子供達と重なる部分もあったが、細かな点が異なっており、専門の医師によれば「おそらく、それとは違うもの」とのことだった。一体何が起きているのかさっぱりわからない、と言われ、両親は途方に暮れた。
 そこで、父は自分の一族の特殊な事情を思い出した。父方の一族は、一定の確率で呪われた人間が生まれる家系だった。先祖の高僧が怨霊の祟りを鎮め、疫病と飢餓から民を救った代償に子孫が呪われることになった、とまことしやかに伝えられているが、なにしろ、あまりにも昔のことなので真偽のほどは定かではない。だが呪いは確実に現代にも伝わっていた。僕の大叔母も再従妹も僕とは違った形で呪われている。
 大叔母に相談したところ、僕のこの状態は一族の呪いのせいであると判明した。
 両親は病院を訪ね歩くのをやめ、今度はなんとかして僕の呪いを解こうと足搔いたが、一族の優れた術者達が千年以上にわたって挑み続けて解けなかった呪いが、少し勉強しただけの素人に解けるはずもなかった。
 呪いが解けないまま僕は小学校に上がった。当然虐められた。中学校ではさらに。高校では、いないものとして扱われた。大学では、あからさまな嫌がらせこそなかったが、親しい友人はできなかった。仕方ない。一人でぶつぶつと何か言っているだけでも不気味なのに、その内容ときたら、あまりにも卑猥なものばかりで明らかにまともではない。近寄りたいと思うわけがない。
 何より、それまで家族以外の誰とも、まともな交友関係を作れずに過ごしてきてしまったということが、取り返しのつかないハンデとなっていた。
 この呪いのいやらしいところは、一見すると自らの意志で呪いを制御することができそうに見えるところだ。確かに数十秒から二、三分は抑えることができる。だが、その後必ず反動のように激しく卑語を連発する羽目になる。学生時代は式典などで下手に我慢しようとして、酷い目に遭ったものだ。事情を知らない人間は僕を不届き者として散々に責めた。
 また、これらの言葉が僕の頭の中と全く無関係ならば、まだ救いもあるのだが、残念ながら、そうではなかった。どんなに下品でありえないような言葉も、全て僕の脳から出てきたものに違いなく、僕が知らない言葉は決して出てこない。そのせいで僕は「呪いのせいなのだから仕方ない」とすっぱり割り切ることができなかった。
 僕がもっと高潔な魂の持ち主で、性的な事柄に一切興味を抱かないか、抱いたとしても、それをコントロールできる人間だったなら、と考えずにはいられない。
 思春期前後からずっと、こうして自らの性的欲求と向き合い続けてきた僕は一時期、欲望を搔き立てる映像や文章などは全て忌避していたことがある。
 だが、それでも僕の中で暴れる性欲は消し去ることができなかった。結果として、悪戯ざかりの小学生のように性器を表す言葉を連呼するようになった。汚言は抑えられるどころか、欲求不満なせいか、それまでよりも酷くなったほどだった。
 若かった僕はやさぐれた。
 どんな卑語であっても、口から出てしまえば結果は同じだ。流暢なスラングだろうが、たどたどしく発音される性器の医学用語だろうが、そういった言葉を人前で口にすること、それ自体がとんでもなく非常識なのだ。いくら禁欲的な生活を送っても、僕の周りには相変わらず誰も近寄ってこない。
 馬鹿みたいだ。こんなに辛い思いをしているのに自慰すら好きにできないなんて。
 そして僕は欲望に負けた。一人部屋に籠もり、その手の動画を大量にネットで漁って、猿のように陰茎を扱きまくった。
 これ以上我慢させられたら、陰茎か陰嚢が爆発して死んでしまうと本気で思っていた。冷静になれば、ただ自分を甘やかすだけの口実としか思えないし、今考えると馬鹿げているが。
 けれど、すぐに後悔した。
 確かに、どんな言葉を発しようと僕にとって大した違いはないだろう。どちらにせよ僕に近付く人間はいないのだから。けれど僕の周りにいる人達にとってはどうだ?
 今この車内で、息を潜めて必死に僕の動向を窺っている彼らのように、不幸にも偶然、居合わせてしまった人達にとっては?
 ポルノに精通していなければ決して知り得ないような、どぎつい言葉ばかり呟く男と、子供のように性器を表す言葉を連呼するだけの男、正直どちらも御免被りたいが、どちらか選べと言われたら、後者の方がまだましだ。
 自分を遠巻きにするからといって、どう思われても構わない、と投げやりになるのは身勝手というものだ。彼らは今この瞬間にも僕を不審に思っているはずで、この空間は居心地が悪いに決まっている。居心地が悪いで済めばまだいい。この車内には子供もいる。性犯罪の被害者だって含まれているかもしれない。彼らは一体どれだけの恐怖を僕に対して感じるのだろうか。それは嫌というほどわかっているのに、結局僕は欲望に抗えず、たびたび卑猥な動画を見ては自慰に耽っている。
 他人から抱かれる警戒心を少しでも減らすべく、せめて身なりだけは整えようと心掛けているが、どの程度効果があるものか。丁寧にアイロンを当てた細身の灰色のスラックス、ぴかぴかに磨かれた赤茶色の革靴のつま先を見て、僕はため息を吐いた。

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